見えなかった夕日
「描けないよっ。描ける訳ないじゃない!」
 私は手にとっていた絵筆を、ばんっと投げ捨てていた。白い部屋の中に、転がっていく。
 そうだ。描けるはずがない。私の指はもう絵筆を握る事すら出来ないのだから。
 3ヶ月前の高校絵画コンクール。私は金賞を取った。皆からも今後に期待されて、私だっ
て希望に満ちあふれていた。
 一月前に、事故に遭うまでは。
 つっこんできた車にひかれ、私は右腕と両足の腱を傷つけた。握力は二度と回復しない、
足はもう歩く事も出来ないという。利き腕が使えないのに、どうして絵を描けというのだ。
 知らない人は左手があるじゃないか、などと言う。だが左手では繊細なタッチを再現す
る事なんて出来ない。そもそもキャンバスを貼る事だって。上手く出来ないだろう。
「出来ないよ。もう、絵なんて描けない」
 この足では風景を見にいく事もできない。
 私はもう何も出来ない。何も。
「死んでしまおうかな」
 左手でナイフを手に取った。ぎゅっと強く握りしめる。
 でも普通、切るなら左手だな。そんな事がふと頭に浮かぶ。そしてナイフを再びテーブ
ルに載せた。
 死ぬ勇気すら、私には残っていない。それにナイフで手首を切ったくらいじゃ人は死な
ない。ましてやここは病院だ。すぐに看護婦さんに発見されて、大騒ぎになるのが関の山
だ。お母さんも今日は用事があるとかでいないけども、普段は殆ど部屋にいるのだから。
 加害者は何も出来ない私の為に個室を用意してくれた。どうせ保険で出るのだから関係
もないだろうが、それは少しありがたかった。
 人と一緒にはいたくない。一人でいられる事がありがたかった。
 でも、絵画の道具をもってきてもらったのは間違いだったかもしれない。
 自分がいかに描けなくなったかを認識しただけだったから。
 いっそそのまま死んでしまっていれば、こんなに苦しまずに済んだのに。
 強く思う。
 だけど。そう思いつつも、それでも。
 やっぱり絵を描きたい。諦めたくない。どこかにその気持ちは残っていた。投げ捨てて
しまった絵筆を拾おうとして左手を伸ばす。
 しかし、筆には手が届かない。ベットから降りる事も出来ない。
 枕元におかれた車椅子に座る事も、一人ではできない。
 悔しかった。
 何も出来ない事が悲しかった。
 私はどうしてこうなってしまったんだろう。どうして。
 ただそれだけが頭を横切って。それでも、必死で手を伸ばした。
 今はあの忌々しい点滴がないだけ身体も動く。しかし動くのは上半身と左腕だけだ。
 届かない。自分で投げ捨ててしまった絵筆だけど。
 届かない。それがただ悲しかった。
 見えるのはただ僅かに差し込んでくる西日だけで。そこに照らされた絵筆に届かない。
 悔しくて悔しくて。それでも手を伸ばし続けて。届かなくて。強く唇を噛んだ。
 その、瞬間だった。
 不意に影が指した。絵筆を拾い上げる、軽く日焼けした手が見える。
「ほら。これ、拾いたかったんだろ?」
 その手の主は呟いて、すっと私に向けて絵筆を差し出した。
 見上げると、見慣れた。だけど少しひさしぶりに観る顔。
 クラスメイトで、幼なじみで。事故にあってから、初めて見た顔。
 私は、浮かんでくる涙を必死で堪えながら。奪うようにして絵筆を受け取っていた。
「なにっ、何しに来たの。あんたなんか呼んでない!」
 強く叫んで、ぷいと顔を背ける。
「はいはい。相変わらず強がりだね。会いたかったんだろ、俺に」
「会いたくないっ」
 涙を見られないように軽くぬぐって、でも振り返りはせず叫ぶように告げる。
「ご挨拶だね。ま、いいけどさ」
 軽く両手を広げて変わらず言う。
「それで、何しにきたの?」
「何って見舞いに決まってるだろ。そろそろ俺が恋しくなる頃かと思ってね」
 指を二本だけ伸ばして、顔の横で振る。相変わらずキザったらしい奴だと思う。
 でもなぜかほっとした。みんなどこか同情の目で見ていたけども、こいつだけはいつも
と変わらなかった。
 それが。嬉しかった。
「誰が。あんたの顔みれなくて、ほっとしてたくらい」
「そかそか。ま、それはいいとしてさ。じゃ、いくぞ」
 言い放って、がちゃりと車椅子を手にとる。
「い、いくってどこに?」
「穂香(ほのか)。お前、ここにきてから一度も外に出てないんだってな。だめだって、
そんな事じゃ気分が滅入るだろ」
 私の名を呼んで、車椅子を横につける。
「ほれっ、いくぞ。もうお前のお母さんと看護婦さんからは許可とってるからな。さ、ほ
らっ」
 ばさっとシーツをめくる。
 その瞬間、かぁっと私は顔を赤らめて。
「ばかーっ。私、パジャマなんだからっ!」
 左手で思わず殴りかかっていた。
 嬉しさを隠しながら。


 一人で着替えるのは大変だから、結局上に軽く羽織って、下には膝掛けをして。  ごとごとと車椅子で押されていった。  その辺りをくるりと回って、近くの小さなデパートにいって軽くショッピングして。  すごくわくわくした。  外になんていきたくない。ずっとそう思っていたのに。  だけどどうしてだろう。とても楽しかった。  こうして戻ってきて、さっきまでの曇った気分がすっかり晴れていた。  さっきまで見えていた暗い病室が、どこか澄んだ様に見える。  もちろん部屋は何も変わっていない。  変わったのは。 「ほら。これ、やるよ」  不意に、懐から取り出した綺麗に包装された箱。 「なに、これ?」 「開けてみろよ」  ぶっきらぼうに呟く。私は、内心胸を高鳴らしながらも、それを悟られないように、心 を落ち着かせる。  包装を解いて、箱をあける。  中に入っていたのは、一本の絵筆だった。それもすごく高級な、とてもお小遣いでは買 えそうもない筆。 「これ」 「ああ、みての通り。筆だよ」  淡々と告げる。その顔は微笑んでいるものの、目は笑ってはいない。 「でも、私もう描けないんだよ」  顔を思わず背けていた。こんな高級なものをもらっても、それに答えられない事が哀し かった。  だけど、その瞬間。 「その程度なのか?」 「え?」  思ってもいなかった冷たい言葉に、思わず視線を戻していた。 「お前の言っていた絵を描くのが好きっていうのは、その程度なのか?」  強い。どこか怒りすら感じる言葉。 「本当に好きなら、諦めないんじゃないのか? お前にはまだ左手だって、口だってある だろ。それに右手だって全く動かない訳じゃないんだろ。諦めなければ、道は絶対開ける んだよ」  言うだけ言い放つと、貼ってあったキャンバスと、それから絵の具やなにやらを集めて 私の元へと持ってくる。 「筆、拾おうしてたじゃないか。お前だって本当はまだ諦めたくないんだろ」  徐々に高らめていく言葉に、私は何も言えなかった。ただ言葉に耳を傾けているだけで。 「なら、描けよ。苦しくても辛くても描いてみせろよ!」  吐き捨てるように、強く告げる。  私は、じわ、と目の端に涙が潤んできているのを感じていた。  でも、ぐっとその涙を堪える。  負けるもんか。  泣いたら負けだと思った。 「描く……よ。私、描くから! 諦めてなんかやるもんか!」  ぐっと喉に何かを詰めて、私は言い放っていた。 「それでこそ、穂香だ。がんばれよ、それ高かったんだからな」  やっと。微笑みを浮かべて。  その瞬間、私ははっと我に戻る。これだけの高級品を買うのは一介の高校生にとっては 大変だったはずだ。たぶん見舞いにくるまでの一ヶ月。ずっとバイトしていたのだろう。  私に、この言葉と共に贈る為に。 「私、描くよ。絶対に描く。いっぱい練習して、描けるようになる。そしたら、その時は。 いちばん最初に、あんたを描く」 「ひどいな。俺は練習台か?」  笑いながらひねくれた事を言う。きっとそれは本心ではないけども。  そんな彼に、思わず私も笑っていた。 「そう。練習台。いつかまた私が、うまく描ける為のね」  静かに告げて。 「だから、その時までどこにも行かないでね。夕日」  目の前にいる幼なじみの名前を呼んで。私は優しく微笑んでいた。  夕日は、ああ、と囁くような声で頷いて。  いつまでも、笑っていた。                                 了
良かったら読んだ感想を下さい!
タイトル
お名前(必須)
メール

★このお話は面白かったですか?
すごく面白かった  まぁ面白かった  普通
つまんない  読む価値なし

★その他、感想をご自由にどうぞ!