ボクのお芝居
 今まで何も知らずに生きていた。
 朝の冷たさに目を覚ましたばかりだった。身体中が軋むように痛い。
 いまこうして見ていると、何も変わらなかったみたいだ。
 ボクは心の内で呟きながら、露で曇った窓ガラスを拭い外を見つめる。
 グラウンドでは野球のユニホームを着た奴が一人、こんな時だというのに走り回ってい
る。いやこんな時だからこそ日常を変えずにいるのだろうか。でも一人きりの朝練は、滑
稽だとボクは思う。
 学校で眠ったのは初めての事だった。
 昨日、あんなことがあったから、誰もボクがここにいる事なんて気が付いてもいないだ
ろう。いや、両親くらいは行方がしれない事に気が付いていただろうけれど、お父さんも
お母さんも、それどころではなかったかもしれなかった。
 窓に映った自分の顔を眺めてみる。思っていたよりも、表情は沈んでいない。
 どうしてだろうな。わからないけれど、ボクは覚悟が決まっていたのかもしれなかった。
 十一月十日、水曜日。何一つ変わらない変哲もない日常が繰り返されるはずだったのに、
今日はもう今までとは違う夢も希望も断たれた日常の始まり。
 ボクの住む町は、完全に他の街から閉鎖されてしまっている。
 新型の生物兵器Ar3。それがこの街の中にばらまかれた。
 人と人とが触れあう事で伝染するウィルスであり、発病までの猶予は感染してから二十
四時間。致死率は100パーセント。
 絶対に助からない。
 ほんの二十時間ほど前、テロリスト達によって高らかに宣誓されたバイオテロだ。
 なぜ、どうして。
 誰もが考え嘆き、そして壊れた。
 壊れたとしか言い様がなかった。
 ボクは知らなかった。人があんなに簡単におかしくなるだなんて知らずにいた。
 沢山の人が、誰にも触れまいとした。それでいて耐えきれずに、道具を持って暴れだし
た。
 車で人をはねてて喜ぶ人もいた。
 鉄パイプを振りまわして、近くにいるものあるものを破壊してまわる人もいた。
 知らなかった。
 ボクは、こんなに世界が怖いだなんて、知らずにいた。
 舞台の書き割りなんかではないのに、簡単に世界は変わり壊れていく。
 ボクの住む町はあちこちにバリケードが張られ、ジュラルミンの盾に身を包んだ自衛隊
が封鎖している。
 国の決断は単純だった。
 壊れた街は捨てる。
 それだけのこと。
 触れてから二十四時間後に発病するのなら三日もすれば、また平和を取り戻すのかもし
れない。テレビでいっていた話によれば、ウィルスは人の身体の中でしか生きられないら
しいから、発病した人間が全て死ねば終わる。
 この街の人間が全て死ねば。
 ボクは窓の外を見つめていた。
 ここにボクが隠れている事を誰か気が付いているだろうか。
 学校なんて逃げ場は当たり前過ぎるのか、ここには誰もいない。
 いや本当はここにだって何人もの人がやってきて、暴れて、それから消えた。だから他
にも誰か隠れているかもしれないし、もしかしたらもうみんなここからは逃げ出したのか
もしれない。
 ボクは四階の古ぼけた部室の道具入れになっていたダンボールの中にずっと収納されて
いた。
 箱の中に入って、道具のふりをしていた。
 あいつは大丈夫だろうか。
 襲われかけているボクをここに逃がしてくれた。頭の上から、どさどさと道具を被せて
誰もいないふりをさせてくれた。
 だけどその後はわからない。
 無事でいてほしい。心から願う。
 ボクが入っていたダンボールの中身を見つめる。いまみるとよくわからないものが山ほ
ど詰まっていたようだった。
 かつらや野球バット。ペンキに絵筆に、いくつかの服。それから誰かの化粧道具。
 ふとみると、どうやらここは演劇部の部室だったらしい。道理でわけのわからない道具
がいくつもあると思った。
 ボクはなんとなく化粧道具を拾い上げた。
 今まで化粧なんてしたことはない。お前は女にはみえねーよ、なんていつも、あいつは
言っていた。ボク自身、女になんてなりたくなかった。男の子に生まれたかった。だから、
むしろそれはうれしかったんだ。
 でもあいつは最後にはボクを守ってくれた。男の子の目をしていた。
 そのとき、ボクは、女の子だったんだと、初めて思えたんだ。。
 あのとき、つないだ手が熱かった。
 ボクが思わず伸ばしてしまった手を、あいつは躊躇無く掴んだ。
 ボクがもし保菌者なら、あいつも一緒に死んでしまうというのに。
 ボクはまだ死にたくない。
 だけどあいつはためらう事はしなかった。
 ボクを守ってくれた。
 ボクは、女の子だった。男の子にはなれなかった。
 そうでよかったと、初めて思えた。
 もしかしたらあと数時間の命なのかもしれなかったけれど。
 ボクは手をぎゅっと握りしめる。
 ボクはここであいつを待ち続けよう。
 終わりがどんな形を迎えるにしても、ボクは、あいつの為に生きる。
 だからボクのお芝居はもう終わり。男の子のふりなんてしない。
 最後の時くらいは。
 早くあいつがきてくれる事を待ち望みながら。
 ボクは、届かない手を伸ばした。
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