佐倉さんから頂きました〜。
不思議なお話をありがとうございますっ

いい加減

 その日、私は胃潰瘍で入院した坂田部さんの代わりに急遽岡野さんに会う
ことになった。岡野さんは私が勤める旅行会社と提携しているフォトサービ
ス会社のカメラマンで、その日は坂田部さんと岡野さんで担当したカナダ旅
行のアルバムの打ち合わせの日だった。

 面倒な仕事を受けてしまった、と私は自分のデスクにつくなり遠慮なくそ
う声に出して言ったと思う。実際面倒な仕事だった。なぜならその仕事は今
の私の給与に反してやらねばならないことが多過ぎた。その頃の私は契約社
員で保障もボーナスもなく、何度言っても必ずコピー原稿をコピー機の中に
忘れてくる学生アルバイトと同じ単価で倍働いていて、それでも最初は一生
懸命やらなくてもいい雑用までこなしていたが、次第に馬鹿らしくなって自
分の一日の仕事にきっちりとタイムテーブルと単価を割り振り、それ以上の
仕事は決してしないと心に決めるようになっていた。それでもしぶしぶその
仕事を受けたのは、前にちらっと見た岡野さんの字に惹かれたからだ。

 私は岡野さんの字しか知らなかった。それも会社宛に送られてきた茶封筒
の裏に書かれた「岡野」という署名だけだ。だがその独特の字は長年愛用す
る万年筆の、ペン先の撓り具合を熟知して書かれたような繊細でいて大胆な
癖を持っていて、どんな人なんだろう、と私はすぐに興味を持った。ただ私
の仕事は広報だったし、事務所は手狭で他社との打ち合わせは必ず外で行わ
れていていたので、残念に思いながらも案外あっさり諦めたような気がする。
 熱しやすく冷めやすい、流されやすく自分から積極的に行動をおこさない。
これは今も変わらず受け継がれる母方の血だ。いつかテレビで偉い人が、人
の遺伝には、次の世代に劣性の遺伝子を残さないようプログラムされている
と言っていたのを思い出す。だとしたら、私のこのいい加減な性格にも捨て
てはいけない何が残されているのだろうか。
 打ち合わせの準備をしながら、私はあの時何となく抱いただけの想いでさ
え叶えてしまう神様の寛容さに感謝し、日頃の行いの悪さに目を瞑ってくれ
ているだろう死んだお婆ちゃんに心の中でありがとうと言った。


 だが、実際待ち合わせの時間に現れた岡野さんはあの繊細で大胆な字とは
到底かけ離れた、どちらかと言うと女性に警戒心を抱かせるような風貌だっ
た。不細工とかオタクっぽいという訳ではなく、スーツもちゃんと着こなし
ていたし、髭剃り後は青くなかったし、髪も長過ぎず短過ぎず感じのいい眼
鏡をかけていたが、何と言うか、一発でわかる怪しく強いオーラが漂ってい
た。私はすぐに彼を気に 入った。

 岡野さんは初めまして、も、よろしくね、もないまま、待ち合わせていた
恋人のように一度私ににっこり微笑んでから向いの席につき、そう大きくも
ないカフェテーブルに次々と写真を積み上げ始めた。その写真の量を見た途
端、私は目の前にいる怪しい彼を分析するどころではなくなった。これから
のこの写真全部に目を通し、アルバム用に厳選した写真にコピーを付けなけ
ればならないのだ。旅行のメンバーは添乗員を含めて160人、地元中高生
の選抜メンバーからなる吹奏楽団の、国際交流を兼ねた演奏旅行。前に一度
だけ任されたことのある日帰りバスツアーとは訳が違う。しかもアルバムは
旅行メンバーだけでなく、協賛企業への配付や県の教育育成プロモーション
に使われ、はたまた劇場の売店で一般向けに販売されるとあって、下手な仕
事をするわけにはいかなかった。なんで一代理店がこんなことまでしなけれ
ばならないのかなり疑問だったが、やれと言われて受けたのだから仕方ない。

 私の目がチカチカし始め、岡野さんがウェイトレスに6杯目のコーヒーの
お代わりを頼むまで作業は続いた。結局それでも終わらなかった。一枚だけ、
どうしてもコピーが浮かばない写真があったのだ。私はコピーライターとし
ての技量をかわれて今の仕事についていた。昔からちらしや雑誌に書かれた
文句を「こんなんじゃだめよ」とか、「今どきこれはなんじゃない?」と批
評するのが大好きで、そのうちダメだと思ったものは自分で書き直すように
なった。何となく見た写真や絵にさえ、言葉は幾らでも降りてきた。それが
いい加減な私に唯一与えられた才能だと思った。だからこそコピーライター
になったのだ。
 なのに、カナディアンロッキーをバックにした、ありふれた集合写真にア
イデアが浮かばないなんてひどい。ここまできて言葉の神様に見放されたの
は正直ショックだった。

「お腹空いたね」
 窓の外を見ながらそう言った岡野さんが閻魔大王に見えた。
 タイムリミット。もうお終い。やっぱり君には無理だった?そう言われた
気がして、私はいきなり泣き出してしまった。
「そうだ、駅前にうまい鰻を食べさせる店があるんだよ」
 そんなことはお構いなしに、岡野さんは呑気な声を出した。私は無視して
しゃくり上げた。第一、泣き出したらそう簡単には止まれない。

「……もしかして、京ちゃん鰻嫌い?」
「へ?」
 が、その台詞を聞いて涙はぴたりと止まってしまった。おまけにビックリ
して思わず変な声まであげてしまった。確かに私のフルネームは神崎京子だ。
だが岡野さんとは本当に今日が初対面で、つい何時間か前に名刺を交換して
初めて彼の下の名前を知った仲だ。なのに岡野さんはいきなり私を京ちゃん
と呼んだ。それも私の家族とごく親しい友人だけが持つ、違和感のない完璧
なイントネーションで。
 確信犯。この人は女の扱いに慣れている。そう思って少し警戒しながら顔
をあげると、そこには「お腹空いたね」と言った時と全く同じ姿勢で頬杖を
つきながら、顔だけこっちを向いた岡野さんがまたにっこり笑っていた。そ
の笑顔をみた途端、確信犯なのか地なのかわからなくなってしまった。

「10秒あげます。この写真を目に焼きつけて。見てわからないのなら触っ
て肌で感じるんだ。そうして焼きつけたら、俺を見て。俺の目を見て」
 岡野さんは突然霊媒師のような油断のないきっぱりとした口調でそう言っ
た。最高にインチキ臭い台詞だったが、私は岡野さんの強烈なオーラに負け、
真剣な面持ちでもう一度例の写真を手にとった。これが最後のチャンスなん
だと、大学受験の時にも見せなかったような必死な顔をしていたに違いない。
数秒後顔をあげて再び岡野さんを見ると、彼は自分の目元を指さしながらま
た言った。
「俺の目に、その光景はどう映ってる?それと自分が見たものとを比べて、
感じたことを書けばいいんだよ」
 頭は大丈夫だろうか。そう思ったが黙って岡野さんの目を見つめた。私は
こういう怪しい人に本当に弱いのだと思う。左脳が生理的に受けつけないよ
うな人でも、右脳が興味を持った人にはとことんなびいてしまう。お陰で騙
されたり、本当に精神を病んでしまった人に刺されそうになったこともある
けれど、それで後悔したことはない。ふと岡野さんが私を縛って刃物を突き
つけ、嫌らしい行為を強要する場面を想像してみたがうまくいかなかった。
それよりこれから二人で駅前まで歩いていき、美味しい鰻を食べる方がよっ
ぽど現実的だ。現に彼の目には私が一瞬考えたような変な下心もなく、ただ
何だか困ったような顔をした冴えない自分が映っているだけだった。お陰で、
私は随分落ち着いて今の自分の状況を客観的に見れるようになった。
 相手の目に映ったものと自分の目に映るものを見比べる。そんなことが物
理的に不可能なのは小学生にだってわかる。だけれど優しい言葉。
 そんなことをぼんやりと考えているうちに、言葉は突然降ってきた。その
瞬間、あ、私この人と寝たいかも知れないな、と思った。恋をしたのかどう
かはわからない。普通好きになったのなら、手を握りたいとか抱き締めたい
とか、キスしたいと思うのだろう。でもそんな部分は完全に欠落していて、
言葉が降ってくる時のように、脳にダイレクトに伝わってきたのだ。
 そう、本能が知っているというように。

 それから私達は鰻を食べに行った。駅までゆっくり歩いていって、帰りも
あちこち寄り道しながらゆっくり帰った。久々に時間を忘れてゆっくり過ご
したので、事務所についたら誰も残ってなくて皆の薄情さに少し唖然とした
が、その日の成果を社長のデスクに置いたら自然と優しい気持ちになり、人
のデスクの上の掃除までして帰った。
 因にその日は岡野さんとは何もないまま別れ、しばらくは忙しくて会う暇
もなかった。それでも岡野さんを特別恋しく思ったりはしなかった。そのま
ま2ヶ月くらい経ち、やっぱりあれは恋ではなかったのだと思い始めた頃、
岡野さんに電話で呼び出され、そこで奥さんと別れたことを聞いた。結婚し
てることさえ知らなかったのにだ。そして「落ち着いたら、一緒に暮らさな
い?」と古風な感じで口説かれた。会ったその日にいきなり京ちゃんと呼び、
次に会った時はろくに付き合いもせず結婚を申し込む遠慮のなさがますます
私を惹きつけた。そしてそんな重大な発言をしてもなお、頬杖をついて呑気
に窓の外を眺めている岡野さんの脳天気に感服さえした。
 答えはあの日のように脳にダイレクトに降りてきたが、私はその答えをし
ばらく自分の頭の中に留めてもう一度考えた。それはこの喫茶店を出て右に
行くか、左に行くか、ただそれだけのような気もしたし、踏み外すせば2度
と這い上がれない底なし沼に架かった板の上でステップを踏んでいるような
気もしたが、同時にそれほど悪い答えではないようにも思えた。

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