ある秋の日の旋律に
「おっはよーっ」
 不意に掛けられた声に、翠(みどり)は読んでいた本を閉じた。顔を上げると同時に、
ずれた眼鏡の位置を直して、おはよう、と小さな声で答えた。
「すい。まだその本、読んでるの?」
「そう」
 同級生で幼馴染みの紅葉(もみじ)の言葉に、しかし翠は淡々と答えるだけだ。
「すい〜っ。本もいいけどさ、今日は明日の演奏会に着ていく服をみにきたんじゃないか。
今日くらい本読むのやめなよ」
 言う紅葉の顔は、しかし笑っている。翠が暇さえ有れば、この本を読んでいるのはいつ
もの事だし、今更、それを咎めようとは思わない。
「わかった」
 パタンと音を立てて、赤い背表紙の本を閉じる。ヴェルレーヌ詩集。タイトルにはそう
書いている。
 眼鏡を掛けた翠が、詩集なんて読んでいると本当に文学少女にしか見えない。綺麗な顔
立ちをしているのだが、本人は気にもしていない様子で、申し訳程度にブラシで整えられ
た髪が、まっすぐに腰の上まで伸びきっている。普通の女の子であれば、髪先を綺麗に整
えられているものだろうが、彼女はそんな事は気にしていないのか、ただ伸ばしているだ
けに見える。
 翠は本を手提げのバックの中に仕舞うと、すっと立ち上がる。
「いこう」
 言葉少なに呟くと、紅葉の意向も聞かずに歩き出す。紅葉はそれに何を言うでもなく、
翠の隣りについて歩き出した。
 しばらくは無言で。いや、正確には紅葉だけが一人であれこれとしゃべりながら、二人
で歩く。翠は聞こえてはいるのだろうが、受け答えはしない。しかし、それでも紅葉は文
句を言うでもなく、ただ楽しそうに話し続けた。
 そんな時間がしばらく続いた後、不意に翠が立ち止まった。
「どうしたの? すい」
 紅葉は翠のことを『すい』と呼ぶ。こう呼ぶのは幼馴染みの紅葉だけだ。
 いや、違う。正確には、もう一人いる。ただ、そのもう一人は、もう彼女の名前を呼ぶ
事はないだろう。恐らくは。
「これなどどうだろう?」
 不意にとある店先にあった服を指さした。
 ひらひらのフリルの沢山ついた、いかにも少女趣味な白いワンピース。
「え? これをすいが着るの?」

「いや。紅葉が」
「い、いやだよっ。こんな恥ずかしい服きるのは」
「そうか? 似合うと思ったんだが」
「ボクにはこんなひらひらの服、似合わないよっ。どっちかというとすいの方が似合うよ」
「ふむ、では私はこれにしよう」
 あっけに取られる紅葉を尻目に、紅葉はすたすたと店の中に入っていく。5分もすると、
荷物を一つ増やして戻ってきた。
「すいって、こういう服好きだったんだっけ?」
 呆れた声で、しかしどこか楽しそうな声で言う。
「いや好きではない。しかし紅葉が似合うというから、一度きてみようかと思った」
 翠の答えに、やっぱりね、と紅葉は呟いた。
 翠はいつもこうなのだ。よく言えば好奇心旺盛、悪く言えばデタラメだった。とりあえ
ずやってみなくては気が済まない。しかし時に誰も思いもしない事をやってくれるのだ。
今日は興味の無い服を買ってみると、その程度で済んだが、時に突拍子もないことをやっ
てくれては、周りにいる人を困らせてしまう。
 しかし紅葉は、そんな翠が好きだった。
「これで私の服は決まった。では、あとは紅葉の服だな。良ければ私が選ぼうと思うが?」
「いやっ、いいよっ。ボクが自分で選ぶよっ」
 必死に否定して、慌てて紅葉は服を選んだ。うっかり時間を掛けようものなら、気がつ
くと翠が紅葉の分の服まで買ってきてしまうことは間違いない。どんな服を買ってこられ
るか分かった物ではなく、紅葉ははぁっと小さく溜息を付いた。
「ところで」
「うん、なぁに?」
 珍しく翠が良くしゃべるので、嬉しくなる。翠は自分が必要であると考えた時以外には、
口を聞かない。それはクラスにいる時も同じで、何も答えない翠に殆どのクラスメイトは
愛想を尽かしている。一時期は彼女をいじめようとした人間もいたのだが、何事も無かっ
たように平然としている翠に、やがて構う人もいなくなった。
 一番、皆を驚かせたのが、体育の時に着替えを隠された翠が、肌着姿のまま授業に出て
きたことだ。先生に問いつめられ、その時の言った言葉が。
「いや着替えようとしたら、私の服が無かったので、私は服を着なくてもいいのかと思っ
た」
 と言うのである。いじめの事実がこれで発覚し大問題となったのだが、心配して語りか
けてきた担任の先生に向かって、本人は曰く。
「やはり、服は着ないといけないものだろうか? 私としては涼しくていいかと思ったの
だが」
 である。これではいじめる方もやりがいがない。次第に、彼女の事を気にする人間はい
なくなった。紅葉を除いて。
 紅葉はクラスが違ったので、その話やいじめの話は全く知らず、後で噂をきいて、いじ
めた相手に思いっきり怒っていたのだが、翠本人が何も気にしていないのをみて、溜息を
つくのみである。紅葉がこれだけ側にいて、いじめの事実に気付かなかったのも、翠が全
く気にしていなかったからだろう。
 ただ紅葉は時に思う。
 翠は小さな時はこんなではなかった。いつから、こんな風に変わってしまったのだろう、
と。
 それは、すい、と呼ぶもう一人が。いなくなった、その時からだったろうか。

 風が吹いていた。
 ひら、ひら、と。
 枯れ葉が舞っていた。
 風が吹いたその瞬間。窓の外、全てを包んだ。
「さよなら」
 あの人は言った。
 笑いながら。 
 笑いながら。
 そして。いなくなった、
 突然の、別れだった。
「貸してあげるよ、これ」
 彼が大事に読んでいた一冊の赤い背表紙の本。
 ヴェルレーヌ詩集、と書いてあった。
「けどっ、愁(しゅう)ちゃん、アメリカに行ったら、もう返せないよっ」
「そうだな。………じゃあ、すい。もしも僕がもどってこれたら。返してくれ」
 ぽん、と翠の肩に手を置いた。
 そして、その瞬間。愁は小さく顔をゆがめたが、翠は気付かない。
 ただ、病院の白いベットに寝そべった愁の膝元で、翠はわんわん泣くだけだ。
 翠は知っていた。愁がアメリカに心臓の手術にいくことを。
 そして。
 殆ど治る見込みがないことを。

 愁がアメリカにいって、三年の月日が流れた。
 あれから、連絡は全くなかった。一度たりとも。
 翠にもそれが意味している事はわかっている。手術がうまくいかなかったか、それとも
術後の経過が良くないか。
 恐らくは、二度と会えないだろうことも。
 そして愁がいなくなったからだ。翠が、一風変わった性格に育っていったのも。
「すい。いよいよ出番だね」
 紅葉の声に、しかし翠は何も答えない。緊張しているのだろうか。そうじゃないだろう
な、と紅葉は思う。翠が話しかけても答えないのはいつものことだし、翠自体はぜんぜん
変わった様子をみせない。むしろ緊張しているのは、ただ見ているだけである紅葉の方だ。
 パチパチパチパチ・・・。遠くから拍手が聞こえてくる。
「あ、前の人おわったみたいだよ」
 紅葉がいうと、翠はすっと立ち上がる。そばにあった楽譜に、一度さらっと目を通すと
本を紅葉に無言のまま手渡す。
「がんばろうね!」
 紅葉の声に、翠がこくり、と頷く。今日、紅葉の問いかけへの初めての返答だった。
 このピアノの発表会は、ただの発表会ではなかった。そもそもが学内の定期演奏会のオ
ーディションを兼ねている。希望者のみが参加し、合格したものがオーケストラのピアノ
パートを弾くことが許される。その為、大変レベルの高いものとなっていた。しかし、今
日のオーディションはそれだけではなかった。
 さる有名な音楽家が、弟子を探しにやってきているという噂なのだ。もしもそれが本当
だとすれば、ピアノを嗜むものにとって、ビックチャンスだ。なんでも翠の通う高校の付
属大学の学長と知り合いだとからしい。
 本当かどうかはわからないが、もしもそれが本当だとしたら。
 参加者は皆、競うように練習を初めた。珍しく、翠も。翠がこんなにも真剣になってい
るのを、紅葉は久しぶりにみたくらいだった。今までこの手のオーディションを翠が受け
たことはない。全員参加のものは参加していたが、希望参加の物には一度たりとも参加し
たことがなかった。紅葉は翠のピアノは本気でないのかとずっと思っていた。チャンスを
自分から振ってきたのだから。今回も参加しないものと紅葉は思っていた。しかし、ここ
にきて突然参加を決めたのだ。それは、やはり恐らくは二度とないチャンスを物にしたい。
その思いからだったのだろうか。
 ピアノの音が、ゆっくりと弾かれる。
 モーツァルトのピアノ協奏曲イ長調23番。翠の好きな曲だった。
 そして、愁との想い出の曲。愁とのお別れの時に手渡したのが、自分が演奏したこの曲
が入ったテープ。
 その曲が、静かなホールの中に、ゆっくりと響き渡る。

 澄んだ。音が聞こえた。
 まるで、草原の中にいるかのような。こんな音は聞いたことがなかった。

 ただ、それなのに。
 こんなにも胸が哀しくなるのはなぜだろう。

 紅葉は思う。

 いつもの、どこか冷たい機械的だった翠の音とは違う。
 優しくて優しくて、それなのに。哀しい。音。
 これが、翠の本当の音だったんだ、と。

 参加者の誰もが、負けを認めざるを得なかった。
 誰もが、まっすぐに音を聴かざるを得なかった。
 誰も予想しなかったほどに、それほどに澄んだ音が。響いた。

 それなのに。

 最後の一小節を残すのみとなった瞬間。
 翠は突然、立ち上がった。

 そして、舞台を駆け下りた――――


「どうして、演奏をやめたんだい?」
 訊ねる声に。翠は、一言だけ答えた。
「もう………アメリカにいかなくてもよくなったから」
 翠の瞳に、涙が浮かんでいた。
「だからって、途中でやめなくても良かったのに」
「これ、返す」
 言って、赤い背表紙の一冊の本を手渡す。
「まだもっててくれたんだね」
「約束だったから」
 翠は、涙を拭こうともしない。ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら。
「けど、この詩みたいに愁ちゃんも、いなくなっちゃうのかと思った」
「馬鹿だな。いなくなる訳ないよ」
 愁は、なきじゃくる翠の頭の上に、ぽんと手を置いた。
「アインシュタインは、『死ぬとはモーツァルトが聴けなくなることだ』と言ったけど。
僕にとっては『死ぬとは、すいのモーツァルトが聴けなくなること』だよ」
 そして、愁はまだなきじゃくる翠の頭を、そっと撫でて上げた。
 もう、何も言わなかった。
 いま、やっと止まっていた時間が流れ始めたのだから。



あとがきのよーなもの

 こんにちわ。翔です。3周年記念として書いた短編です。どの辺が、と言われると?
翠と愁との再会が「3年ぶり」というところらへんですか(笑)?

 いやぁ………。本当は異世界ものを書くつもりだったんですが。ネタが思い浮かばず。
こんな話になってしまいました。

 久々に書いた音楽&詩ネタものです。このサイトを見に来ている人で、ヴェルレーヌの
詩なんか覚えてる人はいないと思いますが。まぁ、気にせずに。もし興味があったら調べ
てみてください。翠が読んでいる詩のタイトルは「落葉」です。

 僕は音楽が好きです。クラシックは最近あんまり聴いてませんが。モーツァルトが好き
です。マーラーが死ぬときに残した言葉は、二言。『モーツァルト、モーツァルト』だっ
たといいます。それくらいに魅力的な音楽だと思います。

 ま、音楽話はその辺にして。
 この話の舞台は、翠の通う音大付属高校でのお話です。よーく考えてみると、学校での
オーディションだったら行う時は制服なんじゃないか? とも思ったんですか・・・。
 いや、きっと学校が私服なんでしょう。そうでしょう。そうに決めたっ。

 そもそもは、ちょっと変わった女の子を書こう。というくらいしか意識にはありません
でした。どうですか? 翠は、可愛いですか?

 最初は音楽&詩ネタを振るつもりすらなかったんですが・・・。
 まぁ頭に何もないで書いていると、いつの間にか趣味に走るのは仕方ないところで(笑)
ほっておいたら、そのうちバイクとかゲームとかが出てきてたに違いない。作品が壊れな
くってよかったぁ(笑)

 ・・・って、この勢いで書いていると、あとがきの方が本文を越しそうなのでこのへん
で止めておきます(笑)

 話の内容は大した話ではないですが、楽しんでもらえたら幸いです。
 よかったら感想もくださいね(笑) ではでは

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