何も知らない明日を
「ね、ボクを描いてください」
 声は確かにそう告げていた。
 顔を上げてみる。目の前に、一人の少年。
 帽子を深々とかぶった彼は、中学生、いやもしかするとまだ小学生くらいだろうか。オ
ーバーオールから覗く肩を露わにして、ちょこんとそこに立っている。見るからに幼く見
えた。
 いざ描こうとしていた絵筆を止めて、無地のキャンバスの向こう側にいる彼をじっと見
つめる。
「えっと、君は?」
 僕は思わず訊ね返していた。この少年には見覚えがない。そもそもこんな年頃の子供に
知り合いなんていないのだから当たり前だ。
「ボク? ボクはゆうって言うんです」
 少年はにこやかに笑う。
 こうしてみていると綺麗な顔立ちをした子だな、と思う。どこかの芸能事務所に所属し
ていると言われても信じただろう。
「それより、ボクを描いてくれますか? だめですか?」
 少年は微笑みを崩さないままで、僕をまっすぐに見つめていた。
「うーん」
 少年の問いかけに何と答えていいものか悩む。
 僕は絵描きを目指しているけども、人物は殆ど描かない。風景画が専門だからだ。しか
しこの少年のまっすぐな瞳を見ていると、描いて欲しいと言うものを断るのも気が引けた。
「あ、そっか。お金いるんですよね」
 オーバーオールのポケットから、小銭をちゃらちゃらと音立てながら拾い出す。
 三百七十五円。それが広げた彼の手にあった金額だった。
 正直、似顔絵程度をスケッチブックに書いたとしても割に合わない。ましてや本格的に
絵に残すとしたら、キャンバスすら買えやしない。
「どうして絵を描いて欲しいのかな?」
「今のボクを残しておきたいんです」
 ちょっとだけ寂しそうに視線を落として、でもすぐに笑顔に戻る。
 その一瞬の仕草が、なぜか僕の胸の中に痛みを走らせた。
「スケッチ程度でいいんです。お願いします」
「うん、わかった。それでいいなら」
 少年の真摯な顔に思わず頷いて、僕は筆を置いて色鉛筆を手にとった。
 本格的に描くにはとても時間がたりない。どちらにしてもまずはスケッチから行うしか
ない。
 本来ならスケッチは炭で行うものだが、彼に手渡すのなら少し色味があった方がいいだ
ろうと思う。それに僕自身が、色鉛筆の色合いが好きだというのもある。
「ありがとうございます」
 少年はそう告げて深々と頭を下げた。
 その刹那。オーバーオールの隙間から、僅かに覗く膨らみが見えて、「彼」が本当は
「彼女」だった事に僕は始めて気付いていた。


 あれから一週間が過ぎた。
 相変わらず僕はこの公園で風景を描いていた。
 僕はこの公園が好きだった。四季折々の色がはっきりと見えるこの公園が。
 あの少女は今頃何をしているのだろうか。
 ふとそんな事が頭に浮かんだ。
 綺麗な少女だったと思う。被っていた帽子とボクという一人称のせいで、始めはてっき
り男の子だと思いこんでいたが、確かによく見るとその瞳ははっきりと女の子特有のそれ
だったと思う。
「最近は女の子みたいな男も増えてるからなぁ」
 と、愚にもつかない言い訳を呟きながらも、そっと公園の向こうへと目を凝らす。
 家族連れや部活帰りの学生達や、ジョギングしている人や、それから車椅子を押す看護
婦さんや家族の姿なんかも見える。病院がすぐ近くにあるのだ。
 それから小学生達が、よく駆け抜けていく。学校帰りの遊び場としてもこの大きな公園
はちょうどいいのかもしれない。
 様々な人達が目の前を通り過ぎていく。
 この広がる風景の中、あの子がそこに立っていたら絵になるかもしれない。
 ふとそう思えた。
 僕は人物画は殆ど描かない。大学の教授にも、たまには違うものにもチャレンジしろと
言われているのだけど、なかなかそう言う気にもなれなかった。
 授業かあるいは課題以外で人物画を描く事は殆どない。
 それがあまり良くはない事なのはわかってはいたが、それでも描く気にはなれなかった
のだ。
 だけど。
 今、なぜかあの少女の笑顔を描きたいと思えた。
 にこやかに笑っていた彼女。
 だけど、僕には彼女はとても寂しそうに泣いているように見えた。
 笑顔でいれば、きっと最高に可愛らしい子だと思うのに。
 描こう。
 笑顔を描こう。
 あの子が満面の笑顔でここにいる姿を。
 描いていた風景の上に、絵筆を入れる。油絵だから色を重ねても問題はない。
 素性も何も知らない、ただ一時間ほど一緒に過ごしただけの少女だったけども、あの寂
しげな瞳は僕が出会ったどの女の子よりも印象的だったから。
 僕はその筆に色をとって、ゆっくりと描き始めていた。



 あれからさらに一週間が過ぎた。
「描けない」
 僕は息詰まっていた。
 彼女の姿は、もう柔らかな春の日差しの中に輝いている。
 だけど、どうしてもその表情だけが描けなかった。
 何度思い浮かべても、その笑顔だけが浮かばない。
 もう一度、会いたい。
 そう思った。彼女の姿を一目でも見ることが出来れば、その筆が進められるのに、と。
 でもそれは恐らくは叶わない願いだろう。
 どこの誰かも知らない少女に、もう一度出会えるとしたら。
 彼女から姿を見せてくれる事だけだ。
 僕はいつもここにいる。
 だから、彼女がもういちど僕に絵を描いて欲しいと願ってくれたなら。
 もう一度、会える。


 そして一週間が過ぎた。
 その日は雨だった。
 雨の日は外で絵を描くなんて出来ない。
 それでも僕は傘を差して公園へと向かった。
 さすがに雨の日は誰もいない。いつも姿をみせる皆の姿も誰一人として見えない。
 それでもいつもの場所に、傘を差して立ち尽くしていた。
 どれくらい時間が過ぎただろう。
 くるはずのない人を待ち続けて。
 そこに立っていた。
 馬鹿な事をしていると思う。
 それでもこうして立っているのは、なぜなんだろう。
 僕は、小さく胸が痛んだ。
 会いたくて会いたくて。たまらない。
 この感情はどこから生まれてくるのだろう。
 ほんの少し話しただけ。その姿を絵に留めただけの少女なのに、どうしてこんなに会い
たいのだろう。
 わからない。
「まるで、恋してるみたいだね」
 僕は自嘲ぎみに呟いた。
 そうかもしれない。
 心の中でふと囁いた。
 僕は絵描きを目指している。だから、他の人には捉えられない何かを捉える事が出来る
と信じてる。
 その何かに触れたのかもしれないと、僕は自分自身を納得させていた。
 でも別にそんな理由なんていらなかったんだ。
 僕はあの悲しい瞳にどこまでも惹かれていたんだと、それだけで十分だったんだ。
 そう思い、顔を上げてみる。
 雨に打たれた公園の風景。こんなにゆっくり見た事はなかったけど、これはこれで綺麗
なものだと思った。
 雨はそれでも降り続けた。


 ふたたび一週間が過ぎた。
 少しずつ絵は変っていく。
 今まで見えていなかったものが、もっとよく見えてきたような気がする。
 暇さえあれば僕はこの絵を描いていた。
 教授は「できあがりが楽しみだ」といってくれた。僕が珍しく人物のいる絵を描いてい
るからだろうか。
 それとも込められた僕の心に気付いてくれたのだろうか。
 何にしてもいつもよりも良い絵に仕上がってきていると思う。
 ただ一つ、彼女の表情が未だ無い事だけを除いて。
 目の前を子供たちが通り過ぎていく。
 きゃはは、と笑っている。
 可愛いな、と思う。
 笑顔の子供達。そんな笑顔をこの絵にも入れたかった。
 その時、キィコ。キィコ。と、車椅子を押す音が響いた。
 いつもの散歩のおばあさんだろうか。
 あのおばあさんとは良く言葉を交わす。人なつこい人で、時々お菓子をくれる。
 僕はもうお菓子をもらって喜ぶ歳ではないけども、ありがたくもらっておくことにして
る。
 僕と同じくらいの孫がいるんだという。だから、話せるのが嬉しいんだろう。
 音をする方へと顔を向ける。
 だけど、いつものおばあさんじゃなかった。
 まだ若い女の子……だと思う。
 白い服に包まれたその子は、だけどその頭に髪が殆どなかった。
 それは薬の影響なのだろう。
 この年頃の女の子にとって、髪の毛がなくなる事はどれだけ辛い事だろうか。
 僕はとても胸が苦しくなった。
 でも、彼女はにこりと微笑んで、そして視線があった僕へと、ぺこりと頭を下げていた。
 ただ、それだけ。
 彼女の乗せた車椅子は、看護婦さんに連れられてそのまままっすぐに歩いていった。

 その夜。僕は絵に筆を入れていた。
 彼女の顔が思い浮かんできたから。
 声は掛けられなかったけど、あの車椅子の子はあの時の少女に違いなかったから。
 残しておきたい。
 彼女はそう願った。だから、あの時の姿を僕は描いた。
 でもいま描こうとしているのは違う。
 戦っている今の彼女の瞳を。
 あの子が目指している場所にあるものを。
 未来をあの子にあげたい。
 それは僕の勝手な一人だけの想いだったけど、それでもいい。ただ僕は描きたかった。
 あの子と出会う事はもう無いかもしれない。
 出会ったとしても、また声も掛けられないかもしれない。
 それでも。僕は未来を描きたいと思う。

 そして、いつか彼女へと届けたいと願っていた。
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