『笑っていたい』 
「いいじゃないですか」
 加奈はゆっくりと言って振り返る。いつもの彼女が決して見せない、寂しい瞳を隠すよ
うに。
「好きな気持ちは止められないんですよ」
 直樹は、もう何も言えなかった。言ってはいけない事と分かっていたのに。思わず口を
滑らせてしまった自分を呪うばかりだ。
「いいじゃないですか」
 背を向けたまま、加奈は呟くように言った。まるで自分自身に言い聞かせるように。
「一人くらい私みたいな子がいたとしても」


「織田せんぱーーーいっ」
 加奈は慎二を呼ぶと、後ろからぎゅっと飛びつく。
「わっ。なんだ、加奈か。驚かさせないでくれ」
 慎二は呆れるように言うと、首だけ振り向いて後ろをみつめる。
「それにな。今日からは俺はもう先輩じゃないんだ。同じ学校に通う一年生だ」
 大学の入学式。慎二にとってみれば、一年遅れの入学式。かつて高校時代に後輩だった
加奈に追いつかれてしまった形になるが、それも仕方ないことだ。映画にかまけすぎて勉
強がおろそかになっていたのだから。
 加奈が同じ学校を受けると知った時、驚きと一緒に。少しだけつまらない感情を抱いた。
そして同時に合格が決まったとき。その感情はより強いものとなった。
 劣等感。あるいは、嫉妬。
 その感情は、そう呼べるものかもしれない。ただそれが自分の身から出た錆であること
は、誰よりも慎二がわかっている。だからこそこの一年、映画の事は忘れ勉強に集中して
きたのだ。
 しかし、それでも。加奈に追いつかれた事は、そして、今でも加奈が先輩と呼ぶことは
慎二の心に深く響いた。加奈は全く意識していないだろうことは、わかってはいるのだが。
「けど、私にとっては、織田先輩はやっぱり織田先輩ですからぁっ」
 加奈は笑いながら言うと、ふと、思う。
 織田先輩は織田先輩。自分の言った言葉が、ずしりと心の中に響く。
 それでも、その思いをどこかに振り払うと、飛びついたままだった慎二の背から一旦降
りる。
「そういえば、水城先輩は元気ですか?」
「美潮か? あいつは殺したって死にはしないよ」
 ぷっきらぼうに答えると、ふと思う。今ごろは美潮も学校だろうか。この大学ではない
し、ましてや一年生ですらないが。
「けど、ここしばらくばたばたして会ってなかったな。連絡してみるか」
「はい! そうした方がいいですよぉ。水城先輩、寂しがり屋ですからっ。それにぃ、加
奈も水城先輩に会いたいです」
 加奈は笑いながら言う。心の底から楽しそうに。ただ、翳りは、どこかに隠していたかっ
たから。

「水城せんぱーーーーいっ」
 加奈は走り出して、ぎゅっと美潮に抱きつく。こうしてくっつくと、同じ女性でありな
がら頭一つは身長が違う。
「加奈ちゃん? ひさしぶりだね」
「はいっ。水城先輩は元気にしてましたか?」
「私? うん、元気だったよ。加奈ちゃんは、元気だったかな?」
「はいっ。元気いっぱいですぅ! 加奈、取り柄はそれだけですからぁ」
 元気良く答えると、それから、えへへ、と小さく照れくさく笑った。満面の笑みが、加
奈の顔に浮かんでいる。加奈がこんな笑顔を向けるのは、慎二の前以外では美潮の前だけ
だった。
「加奈、しばらく水城先輩と会えなくて悲しかったですぅ」
「私も、加奈ちゃんに会いたかったよ。可愛い後輩だもの」
 美潮はどこかゆっくりとした口調で話ながら、にこにことした笑みを、ずっと浮かべて
いる。
「あいかわらず二人で話してると、世界が変わるな」
 のんびりした美潮と、どこか舌足らずなしゃべりの加奈。二人でいると時間が止まった
ような気がする。
 ただ、それでも慎二は悪い気はしなかった。二人が本当に仲がいいことはわかっていた
し、慎二は二人ともが好きだったから。
 ただ一人は好きの中でも特別であったが。
 しばらく三人で、高校時代の懐かしい話に華を咲かせる。しかし、ある程度の時間が過
ぎて夕方に差しかかろうとした時、不意に美潮がぽつりといった。
「あ、もうこんな時間ね。わたし、そろそろいかなくちゃ」
「え、ええーっ。もういっちゃうんですか?」
 加奈は驚いた声でいうと、二人の顔をちらちらと見比べる。
「うん。ごめんね、加奈ちゃん。今日はちょっと、用事があるの。埋め合わせは、また今
度、するからね」
 美潮は、加奈の頭をゆっくりとなでてから、立ちあがる。
「じゃあ、また夜電話するね」
 慎二に向けてそう言うと、ばいばい、と小さく手をふった。
「せっかくあえたのにぃ」
 悲しそうな顔。
 加奈は美潮のことが本当に好きだった。
 だけど、ほんの少しだけ、ほっとした自分を感じている。
 加奈は、そんな自分が大嫌いだった。


「私は、馬鹿なんです」
 加奈は背を向けたまま、静かにそういうと、もういちどくるりと振りかえった。
「馬鹿なんです。織田先輩には、素敵な彼女がいるってわかってるのにっ」
 もう涙を隠せなかった。
 実らないと分かっている恋。
 それでも、いい。そう望んだ恋だった。
「だって、仕方ないじゃないですか。水城先輩は、誰よりも織田先輩にぴったりなんだも
の」
 加奈は笑っていた。その瞳から涙をこぼしながら。静かに、ゆっくりと微笑んでいた。
「それでも、好きだから。私、馬鹿だから、隠せないから」
 無理に笑おうとしているのだろう。ぎこちない笑みを浮かべ、それでも止まらない涙を
拭こうとはせずに。
「だから、笑って好きだっていうしかないじゃないですか。ああやっていれば、傍にいら
れるじゃないですか。好きだって気持ち、隠さなくてもいいでしょう」
 まっすぐに加奈は直樹を見つめていた。その視線に思わず胸が痛くなる。
 もう一度、振り返り背を向ける。背を向けたままで、涙を拭う。
「加奈、みんなのこと好き。織田先輩も、佐藤先輩も、関先輩も、田村くんも、伊藤くん
も、水城先輩も。みんなみんな好きだもん。みんなで一緒にいることが嬉しいもん。織田
先輩と、水城先輩が仲良しでいてくれるのが、嬉しいもん」
 もう加奈は振り返ろうとはしない。
 ただその背をみて、加奈が小さく息を溜め込んでいるのが、直樹にはわかった。
 直樹には何も言えなかった。こんな風に、加奈の心をえぐるつもりなんて無かった。ほ
んの小さな一言だったのに。まるで限界まで膨らみきった風船を、小さな針で突ついたよ
うに。
 弾けた。
「けど。加奈、ずるいから。酷いから。頭悪いから。水城先輩がいなければって……二人
が別れたらって……」
 加奈は背を向けたまま、直樹にいうではなく、ただ一人、話していた。自分の心の中を
全て弾き出すように。
「加奈は、みんなのこと好きだよ。けど、私は私の事。嫌いっ。ずるいこと考える自分が
嫌いだよっ」
 加奈は言って走り出した。
 その背を追いかけることはしなかった。
 出来なかった。
 もしも直樹が。追いかけていたのなら。
 時間は、とまらなかったかもしれなかったのに。

 言ってはいけなかった台詞。
 慎二に綺麗な彼女がいることは知っていた。
 水城美潮という名前の、おっとりした彼女がいることは。
 慎二と彼女が、加奈の高校時代の先輩であるということも。加奈が慎二と同じ学校にい
きたくて、この学校を受験しただろうことも。
 同じ学年になって。それでも、加奈が慎二を「先輩」と呼ぶ理由も。
 それが慎二を傷つけていることを、知っていても。それでも、「織田くん」とは呼べな
かった理由も。
 恐らくは、直樹は気付いていた。
 高校時代のまま。加奈は時間を止めていたのだから。時間が動き出したなら、求めてし
まう自分がいることを知っていたから。
『いいじゃないですか』
 加奈の言葉が頭の中を反復する。
『一人くらい私みたいな子がいたとしても』
 直樹は。
 自分は彼女を追いかけるべきだったのだろうか。
 強く、思う。
 追いかけていたら、時間は動き出しただろう。加奈の心は、違うベクトルを向いたのか
もしれない。
 止まったままの加奈の時間を、いま動かすことが出来るのは、直樹だけだったのに。
 それでも。
 追いかけることは出来なかった。
 なぜだかは。わからない。
 そして、夏が過ぎた。
 全ての時間は止まったままで。
良かったら読んだ感想を下さい!
タイトル
お名前
メール

★このお話は面白かったですか?
すごく面白かった  まぁ面白かった  普通
つまんない  読む価値なし

★加奈のイメージを教えて下さい(いくらでも)
馬鹿  賢い  可愛い  可愛くない  切ない  悲しい
楽しい  優しい  わがまま  思いやりがある  マイペース
ずるい  いじわる  若い  おばさん


★その他、感想をご自由にどうぞ!